食堂で。

どーも。
実は今日の朝7:30頃に家に帰ってきました。

見習い氏の家でPCの壁紙探しに夢中になっていたら、
終電のことを忘れていました。
そして4時台の始発に乗る予定が結局3時頃に寝てしまい
6時台の電車に乗って帰ってきて1限から出席しました。

幸いにも2限が休講になってくれたので食堂で本を読んでいました。


今読んでる「心にナイフをしのばせて」は、まだ序盤なので
感想もなにもないんですが話の内容は実際にあった事件の
ことなので前の記事じゃないですけど読み終わったあとに
それぞれの立場からまた考えてみようと思ってます。
既に読み終えている部分から考えてみてもこの事件も
また難しそうというか考えても自分が心の底から
納得いく見解をだせる気がしません。

テーマをあげるとするなら「いじめ」。
周りからみたらいじめというほどのものでは
なかったという。しかし、いじめられた本人がいじめと感じれば
それはいじめとして成立するのかどうか。
その根拠は・・・?
どこまでが「悪ふざけ」でどこからが「いじめ」なのか。
弁護側と検察側が量刑を決める際にもっとも争ったのではないか
と自分が考えてる部分です。

いじめによる自殺がニュースで多く取り上げられるようになって
から調べてみたのですが、
いじめって思春期の少年少女が学校のなかで、思春期という期間に
よるいろんな気持ちの衝突から引き起こされるものだと思っていましたが
実は大人でさえ会社という組織の中でいじめが存在しているということ
を知りました。

よく考えてみればいじめが発生するのは
クラス内、配属された部署内に多い気がします。
クラス、部署・・・もっと言えば学校、会社という組織は
全員が全員自分以外のものを知った上、一緒に過ごすということ
承諾して成り立っている組織でないのです。
つまり、学校で言えば先生たち、会社で言えば人事の人たちが
クラス、部署という組織を作り上げているわけでその人たちが
作り上げた組織の中にその中にいじめの対象となる
「気に入らない人」がいることは全然不思議なことではない気がして
ならないのです。

だからいじめが発生するのはしょうがないと言いたいのでは
なくだから社会がいじめというものにもっと真剣に向き合わなければ
ならないと思います。
いじめの報告を受けても対応しない、いじめの内容などを詳しく
聞かず生徒に軽く注意をするだけ、もしくは担任に気をつけて
見るようになどとその後の監視がしっかりしていないなど・・・
そういう対応がもしかしたらサレジオ高校の事件の犯人や自殺を
してしまった人たちの引き金となっているのかもしれません。
司法においても、社会全体においてももう少し目を
むける必要があるかなと改めて考えました。

あくまでも個人的な意見なので批判や間違いなどは
あるかもしれませんが。
とりあえずこんな感じです。

ではでは